ぼくは幽霊にあった。二月にしては暖かい日だった。
 その日は学校の委員会があり、帰りがおそくなってしまった。おまけにバスは一時間に二本しかない。それをのがしたぼくは、川にかかる橋の手前のバス停で、くやしい思いをしながら次が来るのを待っていた。
 浅瀬に白いコサギがいた。足をふるって川底のえさをさぐっている。ぼんやりそれを見ていると、ぼくは急になにかの気配を感じた。ふり向くと、すぐ後ろの柳の木の下に、膝から下がない半透明の女の子がひっそりとたっていた。
 あまりにもまっとうな幽霊ぶり。ぼくはかえって驚きもせず、またそれほど恐ろしいとも思わなかった。どうやら自分には霊感があるらしい。前からそんな気はしていた。それらしき気配を感じる時がまれにあったから。でも、こんなにはっきりと目の前に現れたのは初めてだった。
「怖がらないのね」
 幽霊のほうが、先に口をきいた。
「だってきみ、にこにこしているから」
 顔も体もぼんやりとしている。でもなぜかぼくには、その幽霊がけんめいに微笑んでいるように見えたのだ。
「まじめな顔でいきなり現れたら、やっぱり怖いかなと思って」
 幽霊のものとも思えない言葉。でも笑えない。ぼくは妙なものに出会ったしまったという思いでいっぱいだった。
 なんでまた、ぼくの前なんかに出てきたんだろう。そうだ。まだ遺体を見つけてもらえずに成仏できないでいるのかな。この頃テレビでよくやっている。透視能力や霊感があるとかいう、怪しげな人たちが行方不明者をさがす番組。
「なにか用なの?」
 ぼくはぶっきらぼうに聞いた。
「なんていったらいいのかな。そう、忘れ物をしたような気がするの」
 それが、なんだかわからない、だからあの世に行けないのと、幽霊は言った。
「いつ死んだの?」
「去年の十一月の終わり」
「歳はいつく?」
「十二歳」
 名前は中西彩乃。ぼくと同じ年。お葬式もちゃんとしてもらったし、この川の少し下流の大きな寺に、お墓だってあるという。
「あなたは、きっと私を助けてくれるって予感がしたの」
 幽霊の予感ねえ。何か言おうと言葉をさがしていたら、バスが来た。悪いとは思ったけど、黙ってぼくはさっとバスに乗り込んだ。めんどうなことは嫌だった。
 前のほうに、背中の縮こまったおばあさんが一人いるだけで、バスはガラガラだった。 ぼくは、いつものように一番後ろの真ん中にすわった。帰りのすいたバスではいつもその席にすわる。ところがほっとしたのもつかの間だった。
「幽霊なんですけどわたし」
 バスが走りだすとじきに、今度はいきなり現れた。彩乃だ。ふいを食らって、ぼくの心臓は縮みあがった。
 間を二十センチほど空けて、もやもやと白い煙のかたまりみたいな彩乃が、ちょこんとすわっている。
 彩乃はバスが振動してもまるで動かなかった。白いもやもやの身体をすかして、シートの模様がぼんやり見える。
「ぼくに何ができる?」
 気持ちをしずめて、できるだけ不機嫌な声にならないようにいった。
「わからない。でも、とにかくついて行かせて」
「困るよ」
 じょうだんじゃない。ぼくの後をふわふわとついて回るというのか。
「大丈夫よ。ほかの人には見えないわ」
「なんでわかるのさ」
「だって、あなたがはじめてなの。わたしのこと見えた人。すごいわ」
 すごいわって褒められたって、うれしくもない。ぼくにそんな特別な能力があったことが、かえって腹立たしかった。だいたいぼくは、ひとりでいるのが好きなタチだ。いつも誰かといっしょだなんて、しかも女の子の幽霊だなんて、考えただけでもぞっとする。
 ぼくは口をへの字にまげて、前の座席の背もたれをにらんでいた。
「なるべく姿を消しているから」
 バス停につくと、彩乃はそういってふっと消えた。

「なんか顔色が悪いわね。風邪でもひいた?」
 家に帰ったぼくを見るなり、夕飯の支度をしていた母さんは、包丁を持つ手を止めてちらっとぼくを見た。
「幽霊に取り憑かれたんだ」
「あらそうなの」
 そういって母さんは、何事もなかったようにまたジャガイモの皮をむき始めた。全然わかってない。でも仕方がないことだとぼくは思った。
 自分の部屋にいても、なんだか落ち着かなかった。
「おーい、いるのかぁ」
 小さな声で、あたりに何度か呼びかけてみた。が、返事はなかった。
 ぼくはちょっと安心して、ゲームをした。
 ゲームに飽きると、大急ぎで宿題をすませ、お風呂でからだがポカポカしているうちにベッドにもぐり込んだ。布団をすっぽりかぶって、これでぐっすり眠れるはずだった。 ところがへんに目が冴えて、なかなか寝つけない。いつもは全く気にならない目覚まし時計の音が、コチコチとやけに大きく響いて聞こえる。
「ちょっと、いいかしら」
 しばらくすると、彩乃の声がした。やっぱりいたのか。ぼくは、「まるでストーカーだな」と言いながら、布団から顔をだした。
「そんなこと言わないで」
 彩乃はこんども笑顔を作って、部屋の隅にたっていた。
「無理して笑わなくてもいいよ。別に怖くはないんだし」
 いうが早いか、彩乃はあっさり笑うのをやめた。笑っていない彩乃は、やはり少し恐い。 ぼくは掛け布団を目のすぐ下までひきあげ、仰向けのまましゃべった。
「何か思い出した?」
「それがぜんぜん。でも確かに死ぬってわかった瞬間、なにかを思った記憶があるの」
 それを思い出せば、きっと成仏できると彩乃はいった。ぼくだって、さっさと思い出してもらって、一刻も早くこんな状況からさよならしたかった。
「協力するよ」
 やけくそだった。
 彩乃は体が弱く、時々入院をしていたそうだ。だから学校は休みがちで、遅れた勉強を取り戻すために、塾へも行っていた。
「家族や友達のことじゃないみたい」と、彩乃はいった。
 いまでも自分の家や学校をさまよってはいるが、いっこうに何もわからないし、何も変わらないのだという。
「塾へは行ってみた?」
「そういえばまだ」
「じゃあ、塾の友達関係かもしれないね。その線で調べてみるよ」
 ぼくのクラスの女の子たちは、くっついたり離れたり、しょっちゅう人間関係でトラブルを起こしている。彩乃の心残りも、そんなことなんじゃないかとにらんだのだ。案外つまらないことで、成仏しそこなっているのかもしれない。激しい恨みということはなさそうなので、ぼくも、そう深刻にはならなかった。
 このあたりは田舎で、塾といえば彩乃がいた隣町にある新栄塾しかない。ぼくの学校でも、行くとしたらそこだけだ。ぼくは中学受験はしないので、もちろん行ってない。そこで新栄へ行っているクラスの女の子に話しを聞くことにした。ぼくの学校の誰かと、小さな行き違いでもあったのかもしれない。
 
 彩乃と親しかった子というのは、すぐにわかった。隣のクラスの、吉田由香だった。
 クラスは違うし、大人しい子なので、しゃべったことはほとんどなかった。
「もうすぐ卒業だからって、コクる気でしょう」
 由香のことを教えてくれた子が、にやにやしながらぼくを見る。
「ありえない!」
 ぼくはしっかりと否定した。こういうことははっきりさせておかないと、あとでどんな噂をたてられるかわかったものじゃない。女は恐ろしい。
 由香に話しをきいた。
「アヤのこと?」
「うん。仲がよかったんだってね」
「塾では、いつも隣どうしですわっていたからよくおしゃべりしたけど」
 塾以外では、会わなかったという。
 由香は、遠いところを見るような感じでいった。
「夏期講習の始まるころから、具合がわるくなって。いっしょに聖光学園へ行こうねっていってたのに」
 由香からは、彩乃の悪口とか、誰かとトラブルがあったなどということはいっさい出なかった。ぼくは内心ほっとした。もしかしたら彩乃が、この教室のどこかで聞いているような気もしたから。ロッカーの上とか、図画や習字のはってある壁のあたりに、今だっているかもしれない。うまく気配を消しているのかもしれないのだ。
「ほら、この髪の長い子がアヤよ」
 そういって由香は、プリクラノートを出してぼくに見せてくれた。どれも星やハートマークがいっぱいついていて、そのなかで彩乃は、カニのように両手をチョキチョキさせて笑っていた。
 ぼくは注意深くあたりを見まわしてみた。なにか気配がするかと思って、気持ちを集中してみたりした。でも、特別なにも感じなかった。
 彩乃の笑顔はけっこう可愛かった。どこかで見たような気もした。それがどこでなのか、その時はどうしても思いだせなかった。
「そういえばアヤ、片思いしてるっていってた。でも名前も知らないんだって」
 ふうん。じゃ、お手上げだなと僕は思った。そいつはこの学校のだれかなのか。
 次の日、卒業文集の編集作業があった。ぼくは卒業委員で、文集係だった。
 今まで委員会活動なんてめんどうなことは、死んでもごめんだと思っていた。だから自分から参加したことなど一度もなかった。でも最後ぐらいなんかやってもいいかなと、気まぐれに思った。
 みんなの書いてくれた作文をそろえて、目次を作ったり紙面割りをする仕事だ。各クラスから集まった委員十人が、教室のまんなかに机をよせて原稿をならべる。 
「ちょっと、この空いているところになんか絵をいれようよ」
 誰かが言う。すると、あたしに任せてとすぐに手があがる。
 たのんでいた子から、表紙の絵が届く。自分は描けもしないのに、みんなああだこうだ勝手なことを言う。ある子の文章をネタにして、爆笑する。先生の似顔なんかを描いてあるのがあって、その時はみんなで、長いこと笑いころげた。
 ページが一枚足りないと誰かがさわぐ。みんなであたふた探しまわっていると、頭のうえからそのページが、ふわふわと落ちてきた。用があって今しがた帰ったはずのひとりが、頭をかきながらもどってきた。その用がなんだったか忘れたといって、みんなに笑われた。
 楽しかった。ひとつのことを協力してやる作業が、こんなに楽しいものとは思わなかった。
 ここにいる全員がたっぷり二日はかかると思っていた今日の仕事が、どういうわけか一日で終わってしまった。
 だれかが窓の外を指さした。
 遠くの山も家や木も、濃い紫色のシルエットになって、その向こうに恐ろしいほどあざやかな夕焼けが続いている。まるで空が燃えているみたいだった。
 彩乃にも見せたいなどと、とつぜん思ったりした。見回りの先生においだされるまで、ぼくたちは、ばかみたいに空をながめていた。
 彩乃はたいてい、ぼくが布団に入ってから寝るまでの、ほんの少しの時間に現れた。男の部屋なので、気をつかっているようだ。ぼくの生活を、なるべくじゃましたくないともいった。どうやら中西彩乃は、控えめで気の利く、性格のいい子だったのかもしれない。成仏したい一心で、今はぼくにつきまとってるけど。
「何かわかった?」
「これといってまだ」
 でもぼくは正直困っていた。これ以上どうしていいのかわからなかったのだ。
「ねえ、あきらめてくれない」
 すまなそうにいってみる。
「このままずっと、さまよえって言うのね」
 言葉とはうらはらに、彩乃の声はそんなに暗くはなかった。
「そういうわけじゃないけど」
 彩乃はきっと、ぼくの困りようがよくわかっていたのだろう。それから一週間、ぼくの前にまったく姿を現さなかった。

 三月になった。暖かい日と寒い日が交代でやってくる。でも陽ざしは確実に明るくなって、風がやわらかい。ぼくらは、もうすぐ卒業だった。
 毎日、式の予行練習が続いた。文集はできあがり、壁にはってあった絵や習字が、とりのぞかれていく。担任は、机の中や教室の後ろの棚にある荷物を、すこしずつ家に持ちかえるようにといった。
 こういうのって、きっと人生のくぎりなんだろうな。これからも、なんどかこんなくぎりがあって、別れと、出会いをくり返していくんだと思うと、わけのわからないため息がでた。
 そうだ。中西彩乃はこんな雰囲気が経験したかったのかもしれない。卒業まであともう少しだったのだから。
「おーい、いるか」
 夜、布団のなかで呼びかけてみた。
「呼んでくれてありがとう」
 彩乃はそういいながら、部屋のすみに現れた。前よりもずっと、うすくぼんやりとしている。
「ねえ、ぼくについて学校へ来てみなよ」
「ほんとうのこと言うとね、いつも行かせてもらってるの」
 やはり、そうだったのか。
「出たかっただろうね。卒業式」
「そうね。だってわたしの最終学歴、幼稚園卒よ。ちょっと悲しいわ」
「それはそうと、このところ姿が見えなかったけど、どこへ行っていたの?」
「自分の家。母がまだ立ち直れないの」
「気がついてもらえた?」
「ぜんぜん。でも、あんなに悲しんでくれるということは、私のことすごく愛していた証拠よね」
「そうだよ」
 最後に、あなたの学校の卒業式におじゃますると、彩乃は言った。どうして自分の学校じゃないのだろう。ぼくは、しばらくそんなことを思っていたが、そのうち眠ってしまった。そしてまた、彩乃は姿を現さなくなった。
 バス通学も、明日で終わりだ。その朝、いつものバスにゆられながら、ぼくはふと思った。中学は家から近かった。こんどは歩いて通える。  
 途中で、女の人が乗り込んできた。なんだか顔色が悪かった。どこか痛いのか、顔をしかめている。このバスは国立病院行きで、混んではいないが、座席はうまっていた。女の人はまだ若かったけど、ぼくは席をゆずることにした。女の人は、座ってすこし楽になったようだ。小さい声で、ありがとうと言ってくれた。
 まてよ。いつかこれと同じことがあった。デジャヴ。そうだ。夏休みが終わり二学期がはじまってすぐ。具合の悪そうな女の子に席をゆずったっけ。髪の長い子。その日も席はふさがっていて、女の子はとても気分が悪そうで。ぼくは見かねて席をゆずってあげたのだ。あれは中西彩乃だったのか。
「とうとう思い出してくれたのね」
 その夜、何日かぶりに彩乃が部屋に現れた。
 もうどこが顔だか首だかわからなかった。ただ、かすかに白いもやのかたまりのようなものにすぎなかった。でも声だけはぼくの耳に届いた。音声というより、頭のなかに直接ことばが伝わってくるような感じ。
「君は、はじめからなにもかもわかっていたんだ」
「ごめんね」
 短い沈黙のあとで、彩乃は言った。
「文集作り楽しかった。それからあの夕焼けはすごかったね。空が燃えてた」
 やはり彩乃は、手伝ってくれていたんだ。
 ぼくに会いにきたんだねなんて、死んでも聞けないけど、そういうことなのかな。
「あしたの卒業式、おもいっきり目立つところにいろよ。見えるヤツには見えるかもしれないから」
 ぼくは、冗談っぽく言ってみた。
「もういいの。わたし、満足しちゃってるから。あなたが思い出してくれたから」
 そして、彩乃は今にも消えてしまいそうに、さらに薄く透きとおっていった。
「そんなこと言わずにさ」
 ぼくはちょっとあわてた。卒業式というもが、彩乃にとって意味があるのか無いのかなんて、ぼくにもよくわからない。でもなぜか彩乃には、六年生をちゃんと終えてほしかった。
 いつもは、ぱっと姿が見えなくなる彩乃が、今夜はゆっくり消えていった。とうとう成仏してしまったのだろうか。それならそれで、彩乃にとっても幸せなことなのかな。そう思うことにした。そしてぼくは眠った。
 翌日は快晴だった。
「雪なんかじゃなくて、ほんとよかったわ」
 母さんが、よそ行きのスーツに着がえながら言った。ぼくは着慣れない、借り物のブレザーを着せられ、ネクタイなんかで首をしめられ、革靴をはかされた。七五三じゃないんだからと文句を言ったが、無視された。
 卒業式が始まって終わるまで、ぼくは彩乃の姿をさがした。体育館の天井、舞台のそで、演壇、バスケットのリング、暗幕のヒダ。あらゆることろに目をやった。でも彩乃は見つからなかった。ただ卒業証書をもらうとき、ぼくの証書が一瞬宙にういたように見えたのは、気のせいだろうか。
 帰りのバス停でぼくは思った。自分はなんてにぶくて、まぬけなんだろう。
(ぼくになんか逢いにきてくれて、ありがとう)
 式の後でもらった一本のカーネーション。そいつをぼくは、母さんがよそを向いているすきに、橋の上から川へ投げ入れた。桃色の花は、ゆらゆらとうねりながら下流へと流れていった。

空が燃えた日

鬼ヶ島通信47号(2006年)・入選

池田 純子

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