「ただいまぁ」
ぼくが剣道の稽古から帰ってきたら、おばあちゃんが食堂で電話してた。
なにやら深刻そうだ。
部屋にいってねっころがり、おなかがすいたのでおやつを食べにいったら、こんどはテーブルにひじをついて、手帳をにらみつけてた。やっぱり深刻そうだ。
宿題終わってトイレにいったら、こんどはおねえちゃんもいっしょに、リビングのソファで、真剣な顔で話し合ってる。
なんだろう、なにがあったんだろ?
そう思ったけど、ふたりともぼくなんかにまるで気がつかないようなので、ぼくは声をかけなかった。
おかあさんがパートから帰ってきて、そのうちキッチンからいい匂いがしたので、ぼくはまた匂いにさそわれて部屋をでた。
そのときにはもう、おばあちゃんもおねえちゃんもいなかった。それでぼくは、おかあさんに聞いてみた。
「ねえ、おばあちゃんたちなにかあったの? ずっと深刻そうだったよ」
するとおかあさんは、おなべの煮物を混ぜながら答えた。
「うん。なんか四年生の子がね、足の指折っちゃったらしいよ。あちちっ」
あ、かぼちゃの煮物だ。ぼくはかぼちゃのあの甘さは、おかずとしてはちょっと苦手だ。
「こんどの日曜日、発表会でしょう。だからひとり抜けると、困るんじゃない? うん。ま、これっくらいでいいか」
そういっておかあさんは、おなべにフタをした。
「きょうのおかず、それと、なに?」
「サバの塩焼き。あ、マカロニサラダもあるよ」
ああ、よかった。サバもマカロニも好きだから。
ほっとしたら電話が鳴ったので、ぼくが受話器をとったら、おばあちゃんからだった。
「あ、ゆずるかい? 悪いけど、夕花にかわってくれない」
「わかった。まってて」
おばあちゃんの声、低い。まだ深刻らしい。
ぼくは階段を上がり、電話をおねえちゃんの部屋に持っていった。おねえちゃんは怖い顔して、ぼくから受話器をひったくった。
ぼくんちでは、おばあちゃんがフラの先生をしている。小六のおねえちゃんは、その教室の、生徒だ。
だからたぶん、ふたりで、足の指を折ってしまった子のかわりをどうするか、相談してるんだろう。
ぼくはそう考えながら、階段を下りた。
しばらくすると、おねえちゃんがペタペタ足音をたてて、電話をもどしにきた。フラは裸足で踊るので、そのせいかこの頃、おねえちゃんはいつも素足でいる。
「あ、どうだったの夕花。代わりの子、なんとかなった?」
おかあさんは、こんどはサバの切り身をグリルに入れながら、聞いた。
「だめだって。こっちもだめだよ。そりゃあ、一度もフラ踊ったこともない子に、あと二日でなんとかしてっていったって、すぐにいいですなんて、いってくれるわけないよね」
おねえちゃんは、怒ったようにいう。
「でも、フラってさ、一曲がすごく短いじゃない。たいてい五分もかかんないでしょ。そいでもだめなの?」
ぼくはいってみた。
「うーん。そうはいっても、知らない子はね……。ヒップホップやってる子と、クラシックバレエやってる子にも聞いてみたんだけど、その日はふたりとも用事があるっていうし」
「ふうん、そっか。よし、じゃあ、おかあさんでどうだ?」
「だめっ。よけい迷惑!」
「ぷっ」
ぼくは吹きだした。
うちのおかあさん、背たけは子どもなみだけど、横幅がありすぎ。それに、リズム感もよくなさそ。
「なんで? いいアイディアだと思うんだけどなー」
おかあさんは首をかしげながら、冷蔵庫を開けた。
「でもさ、なんでそんなに代わりの子探すわけ? だめならひとり、はずせばいいだけなんじゃない?」
ぼくは椅子に座り、ポッキーをかじりながらいった。
「それが、そうもいかないんだって。あの曲、大人と子どもがペアで踊るからさ、ひとり抜けるとバランスがくずれちゃうんだよ」
いいながらおねえちゃんは、ぼくのポッキーを横取りした。
「なら、ほかのグループの子が、二回踊るってのは?」
「それも考えたんだけどぉ、ドレスのサイズもあるしー」
「ああ、そうか」
「そうなんだよ」
いってまた、ポッキーを抜き取った。ぼくはどうもいいアイディアもなさそうだし、ポッキーがさらにへりそうなので、退散することにした。
いきかけたら、おねえちゃんが後ろからまたいった。
「そういえばゆずる。あんたその子のこと、おぼえてない? 千尋ちゃんていうんだけど」
「えーっ、ぼくが? なんで?」
よくよく聞いてみると、千尋ちゃんとぼくは、幼稚園のときいっしょだったのだという。
「ーーということは、あたしもなんだけどさ」
いっておねえちゃんは、またポッキーを取ろうとしたから、ぼくはあわてて後ろにかくした。
「なによ、ケチ」
すごい目でにらみつけてから、おねえちゃんは自分で棚からおせんべををだした。
「あんたが年中で、千尋ちゃんが年少でね、秋にバスでフルーツパークに遠足にいって、あんたが坂のとちゅうで栗のイガ見つけたときよ。おかあさんが、すべるからよしなさいっていうのに、あんたはなかの栗がほしいって、登っていっちゃったの。そしたらやっぱりすべっちゃって、千尋ちゃんに衝突しちゃったのよ」
「え。あらま、あのときの?!」
おかあさんが、すっとんきょうな声をあげた。
「そうよ。あのときの、なの」
おねえちゃんは、バリバリ音をたてておせんべをかじりながらいった。
「あのときはほんと、大変だったわよねぇ。ふたりともあちこちイガがささっちゃって。まるで、ハリネズミみたいだった」
大変だったといいながら、おかあさんは笑っている。
「も、笑いごとじゃないでしょ、おかあさんってば。あたしだってイガぬくの手伝って、あちこち刺さっちゃったんだから」
「そうそう。そうだったわよねー」
いいながらおかあさんは、まだくすくす笑ってる。
「へぇー、そんなことあったんだ」
「あったってあんた、ほんとにおぼえてないの?」
おねえちゃんがいった。
「ぜんぜん……」
ぼくは答えた。
「まあね、年少さんだったからね。あたしはそれから卒園まで、ときどき千尋ちゃんとはブランコとかきのこの家で遊んでたんだよ。だからフラの教室入ってきたとき、すぐにわかった」
「すぐに、って、じゃあ千尋ちゃん、別の学校なの?」
おかあさん、マカロニをなべにあけながら聞いた。
「うん。あの子は広瀬川小」
「ああ、そうなんだ。だったらぼく、ほんとに千尋ちゃんに悪いことしちゃったんだね」
「そうだよ。いつか会ったらあやまりなよ」
「会う機会、あったらね。ところで千尋ちゃんて、どんな子?」
「どんな子ったって……あ、そういえば写真あったよ。見る?」
「うん。見たら思い出すかもね」
「だね」
いうとおねえちゃんは、袋を放りだして階段を上った。
「どれどれ」
持ってきた写真を、おかあさんものぞきこむ。
「ま、かわいい。発表会のときの?」
千尋ちゃんは、フリルのついたクリーム色色のドレスを着て、お化粧をしている。まるいおデコとたれ目が、かわいい。
「フラ、好きみたいよ。スジがいいって、おばあちゃんもほめてたしね」
「ところで、ゆずるは思い出したの?」
おかあさんがぼくをのぞきこんだ。
「ううん、ぜーんぜん。でも感じいい子だよね。この子の代わりなら、ぼくが踊ってやってもいいな」
「えっ?」
「マジで?!」
ふたりの目が、おっきくなってぼくに吸いつく。
「あはは。冗談」
「あら、でも受けるかもしれないわよ、その坊主頭」
「坊主頭じゃないってば。スポーツ刈りだって、何度もいってるでしょ?」
おかあさんに抗議したときだ。
「いや、冗談じゃなく、いいかもしれない」
後ろでしわがれ声がし、ぼくは驚いてふりむいた。
のれんのところに、おばあちゃんが立っていた。
「頭なんか、カツラをかぶればいい。生徒さんの親ごさんに美容師さんがいるからね、たのめばなんとでもしてくれるよ」
いいながらおばあちゃんは、近づいてきた。
「だって、ドレスは?」
おねえちゃんが聞く。
「着られるだろ、ゆずるなら。まあ、肩のあたりが多少いかついだろうけど、レイをかければ、だいじょうぶだよ」
「うん!」
おねえちゃんがぼくの肩のあたりを見まわしながら、うれしそうにうなずいた。
そして続けた。
「おぼえてる、ゆずる? あんた幼稚園のころはよく、あたしといっしょに踊ってたんだよ」
「そうそう、そういえばそうだった。おとうさんがおもしろがって、夕花のスカートはかせたりね」
おかあさんもいった。
「そうなんだよ、ゆずる。おまえなかなか上手だったんだよ。うまく、音楽に乗ってた。リズム感がいいんだね。だからゆずる、本気で考えてみてくれないかい? そしたらおばあちゃん、本気で恩にきるよ。お礼にデジカメ、買ってやってもいい」
「え、デシカメ? ほんとに? ほんとに、ほんと?!」
ーーというわけでぼくは、ほんとうにフラを踊ることになってしまった。
あんなピラピラのドレス着るなんて、考えただけではずかしいけど、でも、カツラかぶってメイクしちゃうなら、誰だかわからないかもしれない。
それにたった五分くらいでデジカメなら、すごくいいバイトだ。
そうだ。バイトとして考えりゃいいんだ!
ようーし!
それでぼくは、フラガールになることにした。
おばあちゃんがあちこちに電話をしている間、ぼくはリビングで曲のテープを聴いた。ハワイ語だから、意味はさっぱりわからないけど、のーんびりゆったりした、感じいい曲だ。
「おまたせ。じぁあだいたいの手順、説明するからね」
そういっておばあちゃんは、テーブルにノートを広げた。
ぼくはちょっと、緊張する。
「いい。このグループは、大人四人と子ども三人。千尋ちゃんは、真ん中」
おばあちゃんは、ノートに絵を描いて説明してくれた。
「一番目立つとこだけど、しょうがないね。いま変えると、大人が迷っちゃうからね。なにしろここまでくるのだって、大変だったんだから」
いっておばあちゃんは、やっと笑顔になった。
大人の生徒さんは、六二歳のおばあちゃんより、さらに上の人が多いので、おぼえるのに時間がかかるのだそうだ。だからなるべく、位置やフリなども、変えたくないのだという。
説明を聞いていたら、電話が鳴った。おねえちゃんが、あ、きた! といって走っていった。
「ゆずー、千尋ちゃんからファックスきたよ。踊りの手順、書いてくれたからー」
千尋ちゃんからのファックスは、六枚。
最初の一枚目は、ぼくへあててだった。
『町田ゆずるさま
わたしのかわりに、はっぴょう会でおどってくれて、どうもありがとう。
これが、おどりの手じゅんです。
はっぴょう会のときは、ぜったい見にいきますから、どうかがんばってください。
桜木千尋より』
へえ、きれいな字。文章も、ぼくより上手かも。
それに、発表会にくるんだって。
まさかぼく、アガッたりしないよなぁ?
二枚目からのは、頭と手足だけの、人形みたいなのがいっぱい描いてある、それが、踊りの説明の紙なのだった。
ぼくは、こんなふうにフリやステップを書いて覚えるのは、おばあちゃんやおねえちゃんのを見ていてしっていたけど、これを見ただけではなんのことだかさっぱりわからなかった。
「だいじょうぶだよ。そのうちわかるようになるから。じゃあまず、さっそくだけどステップからやってみようかね。すべて四拍子が基本だからね、リズムはとりやすいよ」
というわけで、練習開始だ。
やっぱりぼくは、ちょっと緊張する。
「これがカホロ、これがカホロホロ。このふたつはよくでてくるからね、しっかり覚えよう。ひざを軽くまげて……こら、お尻はつきださなくていい。よし、それでいい。クォーターターンも使うからね、これもやっとくよ。いいかい、よく見てて。まず左向き。体重は右、左、一、二。こんどは右。右足から、一、二。うん、いいね。よし、なかなかいいよ。やっぱり門前の小僧だね。初心者じゃ、こうはいかないよ」
てへっ。ぼくはほめられて、いい気分だった。これなら、なんとかなりそうな気がする。
おねえちゃんが、後からいった。
「あたしね、あんたが踊ってるとき、想像してみたんだ。カツラかぶって、ドレス着たとこ。にくらしいけどあんたってさ、あたしより目がぱっちりしてるし、まつ毛も長いんだよね。お化粧したら、きっとだれも男の子だなんて思わないよ。そう思ったら、すっごくおもしろくなってきた」
「うん、ぼくも」
よーし! ぼくはフラガールだ。完璧な女の子めざすぞ。だれにも見抜かれないからな!
練習が終わって、ぼくはもう一度、千尋ちゃんの書いてくれた絵を見た。
フラというのはハワイ語でダンスという意味で、手の動きには、手話のような意味があるのだそうだ。
この曲は、太陽や虹、空の雲を、光や帽子、扇などにたとえているんだって。なるほど。
そう思って見たら、こんどは意味が、よくわかった。
次の日は土曜日。
朝ご飯を食べるとぼくは、おばあちゃんと車で美容院にいった。カツラを合わせるためた。
「あーら、よくにあうわ。小麦色の肌だから、ハワイの子らしくていいわよ」
若い美容師さんがふたり、楽しそうに笑いながら、ぼくのカツラの世話をしてくれた。こげ茶の長めのおかっぱだから、なんだか首やおデコがくすぐったい。
帰ったらドレスが届いていた。千尋ちゃんのおかあさんが、届けにきてくれたのだそうだ。
着てみたら、胸のあたりがちょっときつかったので、おかあさんにダーツの調節をしてもらうことにした。スカートも短かめだったから、ぎりぎりまで伸ばすことにした。
「あーあ、おかあさんにまでこんな役がまわってくるとはねぇ。お裁縫、大の苦手なのに」
「悪いわね、佳子さん。頼みますよ」
「あ、はい。わっ、わかりました!」
おばあちゃんの声に、おかあさんは背中をぴんと伸ばして返事した。
午後は、お昼ご飯を食べるとすぐに、小倉さんの家だ。ぼくとペアを組む人だ。小倉さんは、おばあちゃんより十一歳年上だけど、丸顔でにこにこした、かわいらしい人だった。
「よかったわ、ゆずるちゃんが代わりをやってくれて。あたしもうほら、オツムにもやがかかってるからね、突然フリが変わったりすると、すぐには覚えられないのよ」
そういう小倉さんは、まちがえると、きゃあっ、とか、わあ、とか、派手なアクションがはいる。ときどき長いおしゃべりもはいるから、終わったら三時を過ぎていた。
お茶をどうぞといわれたけど、ぼくたちはまだやることがあるので、手作りクッキーだけ包んでもらって、帰ることにした。
「ゆずる。さっきの位置をかわるとこね、はじめは右まわりだからね。ゆずるが先にまわりこまないと、ぶつかるから。タイミング、まちがえないようにね。音のきっかけは何度もテープ聴いて、確認しといてよ。また夜練習するからね」
車を運転しながら、おばあちゃんはいった。四時からはまた公民館で、発表会の総練習なのだ。ぼくはその時間は、塾で模擬テストがあるので、残念だけどでられない。
なんとかテストをやっつけて、いそいで家に帰ると、次は自転車で剣道の特別練習だ。一ヶ月後に昇段試験があるからだ。
終わって家に帰ると、なんだかものすごく疲れた。
ぼくはリビングのソファで横になり、テレビを見ているうちに眠ってしまった。起きて夕ご飯を食べ、テープをかけてすこし練習して自分の部屋にいったら、こんどはベッドでうつぶせのまま寝てしまった。
十一時半ごろ目が覚め、ふらふらしながらパジャマに着がえていたら、なんだか悲しくなってしまった。ぬいだ服はくしゃくしゃで汗臭いし、よだれをたらしていたのか、口のまわりがぬるぬるしている。
なんでぼくは、こんなことをしているんだろう? どうしてこんなことになっちゃったんだろう……。まったくぼくって、お調子者だ。
第一、男のぼくが、どうしてフラなんか踊らなきゃならなんだーー?
おばあちゃんだって、はじめは門前の小僧だとかいってほめてくれたくせに、だんだん容赦なく、きびしくなってきた。
「ほら、そこっ、どうして毎回合わないんだと思う? ステップがいいかげんだからだよ。もどったときのタップが、抜けてるだろ」とか、「ハイナのとこはもっとやわらかく。まったく、剣道の試合じゃないんだからね」とか、ずばずばいうようになった。
ぼくはカチンとくる。
だってぼくは生徒じゃないし、こまってるっていうから、手助けしてやろうと思っただけなんだもの。なのにそんなにガミガミいわなくったって、いいと思う。
「いや、おまえにはほんと、感謝してるよ。だけど、それとこれとは別だろう。たとえどんな理由にせよ、一度やると決めたからには、できるかぎりのことはすべきだと思うね。そのほうが、気持ちいいだろうが? それにおまえには、できるからいうんだよ。きのうときょうで、これだけやれたんだ。たいしたもんじゃないか。おばあちゃん、おまえが女の子でなくて、ほんとうに残念だよ」
その言葉を思い出したら、うれしいのか腹が立つのか、わからなくなってきた。
できるからって、たった一回だけのことなのに……。その一回のために、カツラかぶったり、ぴらぴらのスカートはくぼくの身にも、なってもらいたいね!。
「ほんとにもう、まったく!」
だんだん目が冴えてきた。
だけどもう、いくらいってもしょうがないんだ。引き受けちゃったんだから……。
ぼくはため息をついて、トイレにいき、キッチンで麦茶をがぶがぶ飲んだ。コップを流しにおこうとすると、
「おお、ゆずる」
と、おとうさんがふらふらしながらやってきた。手には、ウイスキーのグラスを持っている。
「おまえ、フラの特訓受けてんだって?」
赤い顔で、おとうさんはにやにやしながらいう。
「受けてないよ、特訓なんて、別に」
特訓という言葉に、ぼくはカッときていった。
「なんでぼくが、そんなもの受けなきゃなんないんだよ?!」
「だって明日、発表会にでるんだろ?」
「でるさ。だけどでるっていったってーー」
いっているうちにまた、ぼくはムカムカしてきて言葉がつまってしまった。
「たんなる、ピンチヒッターの、つもりだったんだ。なのに、おばあちゃんてば……で、できればあんなもの、取り消したいくらいだよ。デジカメだって、もういらないし!」
「ほお、デジカメ? それが取り引きの条件だったのか」
「ち、ちがうよ! むこうからいいだしたんだ。ぼくが欲しがったわけじゃないよ。へんなこと、いわないでよね!」
「なら、その時点でことわればよかったじゃないか」
「だから、それはぁ……はずみなんだって。だって代わりがいなくて、すごくこまってるって、いうからさっ!」
「まあ、まて。そんなに大きな声出すな。みんな目を覚ますぞ。とにかく座れよ」
いわれてぼくは、ソファのはしに、お尻を半分だけ乗せた。
「たしかにはずみとかは、あるんだよな、うん。考えてもそう大した理由はないのに、なりゆきでそうなるとか、つい口がすべるとかーー。おお、そうそう、そうだ。すべるんだよな、口が。言葉がすべって、飛びだす」
いいながらおとうさんは、お酒をひと口飲んだ。
「しまったと思うけど、そんときゃもう、後の祭り」
おとうさんは、ひとりで飲んでしゃべる。ぼくは口をはさむ気になれない。
「だけどな、そういうのも、悪いことばかりじゃないぞ。たまにはそれで、まったくちがった展開になることも、ある。道がひらけるってことも、あるんだ」
「どんな」
「はぁ、どんな……か? うん、そうだな。たとえばーー」
おとうさんは天井をにらんだ。
「えー、たとえば、たとえば、と……」
「もう。よっぱらってんでしょ、おとうさん」
ぼくは立ちあがりかけた。
「いや、待て。いまなんかこのへんまでのぼってきたぞ。そうだ、口がすべるっていうのはだな、もともとどこかにそういう気持ちがあって……それが、出番をうかがってた、ってことかもしれんぞ。だから」
「ちょ、ちょっと待ってよ、おとうさん! じゃあなに? ぼくにはどこかにフラを踊りたい気持ちがあって、それがたまたまでてきた、ってわけ?」
「ほお。あったのか、おまえ?」
「もう、冗談じゃないよ。そんな気持ち、あるわけないじゃない! やめてよねっ」
ぼくは胸がちりちりした。だいたいお酒飲んでるおとうさんと、こんな話したって、無駄だったんだ。いってることなんて、めちゃくちゃなんだから。
「でもおまえ、小さい頃はよく踊ってたんだぞ。けっこう覚えがよくてさ」
「しってるよ。それでおとうさんが、スカートはかせたり、したんでしょっ」
「その通りだ。だからそのノリでやりゃあいいじゃないか。こんなチャンス、めったにないぞ。いい思い出になるぞ」
「だから、そんな思い出なんて、いらないって!」
「でも、明日なんだろ?」
「そうだよっ、明日だよ、明日あしたっ!」
怒鳴ってぼくは、どたどたと階段をかけあがってしまった。
次の日の朝は、窓の外がぱぁっとあかるくて、空が青くて、すばらしくいい天気だった。
夕べはあれからふて寝してしまったけど、目覚めはあんがいすっきりしていた。
きょうだ。
きょうだけなんだ。
ぼくは窓の外を見ながら思った。きょうだけがんばって踊ればいい。それで終わりなんだ、って思ったら、ようし、やってやろうじゃないか! って気になった。
だってぼくはもう、やめるわけにはいかない。自分でいいだしたんだもの。
だから、楽しんでやろう! って。
思いっきり、楽しんでやろう! って。
それでぼくはいま、舞台のど真ん中!
フラガール、真っ最中〜!!
ライトをあびて、オレンジの花柄ドレス着て、白いレイをつけ、長い髪のカツラをかぶってる。
客席の目がいっせいにこちらを見てるけど、ぼくがフラボーイだなんて、だれも気がつかないだろう。
あはっ。ちょっと愉快!
でも、出番を待っている間はどきどきした。心臓があがってきて、のどがカラカラになって、逃げ出したくなった。
そのときおばあちゃんが、ぼくの背中をどんとたたいて、いってくれたんだ。
「さ、一世一代のフラガールだよ。おまえにはできる。自信を持っていっといで!」って。
「うん!」
振り向いて目をあわせたとき、ぼくにはおばあちゃんの気持ちがわかった。
おばあちゃんはプロなんだ。先生として、できるだけのことをする。にわかお弟子さんでも、最高の舞台をふませてあげる。それが仕事なんだ。
おばあちゃんはいつも、そういう気持ちで仕事をしていたんだ。だからぼくにも、そういう気持ちで教えたんだ!
よし、つぎは場所の交代。ぼくが先にまわりこむ。前にでたら、すぐにアミ。
よし、やったぞ。うまくいった!
小倉さんがうるんだ目でぼくを見、小さくうなずいてくれた。
客席のはしっこでは、千尋ちゃんが前のめりになって、こちらを見ている。ぼくは目だけで、千尋ちゃんにも合図した。
真剣だった千尋ちゃんの顔がめちゃくちゃにくずれ、泣き笑いの笑顔になって、ぼくに手をふってくれた。
ぼくはもう一度、にこっと笑った。
ぼくはフラボーイ
太田 清美
鬼ヶ島通信50+9号鬼の創作道場入選(2012/6/15)