ほんとのきもち

           鬼ヶ島通信70+7号入選(2021年12月)

 

 いつもと同じ月曜日の朝だった。 相原さんが教室に入ってくると、みんなの目は相原さんにくぎづけになった。相原さんの髪の毛が、金色になっていたからだ。
「うわ、キンパツ。やば」
 誰かが小さく言うのが聞こえた。教室のなかがざわついている。でも、誰も直接相原さんに声をかけることはしない。

「なんやねん、じろじろ見たりこそこそしゃべったり、やめてや。別にええやん」 
相原さんは誰に言うでもなく言った。みんな一瞬しんとしたけれど、またあちこちでざわざわし始めた。

 相原さんはもう気にするそぶりもなく、ロッカーにランドセルをばさっと入れて、どかっと席に座った。
 相原さんの後ろの席のわたしは本を読みながら、相原さんの背中まである髪をちらちらと見た。金髪を間近で見るのは初めてだ。どうやったらこんなに金色になるのかな。

 相原さんはいつも黒のジャージを着ている。マスクもいつも黒。だから金髪がよけいに目立つ気がする。背は6年の女子で一番高い。そして、みんなとは違う関西弁で早口に話す。いろんなことがなんだか目立ってしまう。わたしはなんだかちょっとだけ、怖いなって思ってる。
 相原さんは、前髪もぜんぶひとまとめにして、頭の高いところでポニーテールにしている。この髪型で金髪って、どこかで見たことあるな。あ、そうだ、シャーリー。わたしは読んでいた本を閉じて、表紙のシャーリーの絵と相原さんを見比べた。すごい、似てる。まぁ、シャーリーはジャージは着てないけど。
 男子がつるんでやってきて、相原さんの金髪をはやしたてた。わたしは後ろでどきどきしながら聞いていた。相原さんは淡々と「ママがやろっていうからやっただけ。人のことほっといてや」と言った。
 そのとき、先生が教室に入ってきた。男子はちらばってしらばっくれた。相原さんの髪を見て、先生の目が丸くなったのがわかった。朝の会のあと、相原さんは先生に何か言われているようだった。
 2時間目が終わって、わたしは中谷さんを探していた。月曜日の今日は、図書室の当番の日だ。先週も、その前も、中谷さんは当番に来なかった。次は来てねと言おうと思ったけど、言えないまま、また月曜日になってしまった。
 お天気はいいけれど、廊下は10月らしくひんやりしている。図書室までのろのろと歩きながら、中谷さんを探していると、ちょうど中谷さんが廊下を走ってきた。当番だよ、の言葉が出てこないでいるうちに、中谷さんがわたしに気がついて言った。
「あー、そっか、今日図書当番だっけ。ごめん、今日は外で遊ばせてー」
 でも、先週もその前もだったよね。当番はちゃんとしたほうがいいんじゃないかな。言葉は喉の奥の奥でもやもやとただようだけだ。
「え、あ、わかった…」
 わたしが言い終わらないうちに、中谷さんは走り去っていった。休み時間の楽しそうな笑い声を背中で聞きながら、図書室に入った。
 今日は図書室には誰もいなくって、しんとしている。グラウンドや廊下のざわめきが、静かな部屋の外で反響している。
 カウンターの中に座り、借りている本「ドラゴンテールズ」を取り出した。表紙に描かれているのは、主人公の魔法使いシャーリー。町に降りてきて悪さをする竜を退治しにいくというファンタジーだ。竜のすみかまでの道のりは大変だけれど、困難をひとつ乗りこえるたびに、シャーリーの魔法の力は強くなっていく。最近借りて読んでいる、お気に入りの物語だ。
 続きのところを開いてみたけれど、残っている喉の奥の奥のもやもやが気になってきた。飲み込むか、吐き出すか、どっちかできたらいいのかな。マスクの奥で、つばをぐっと飲み込んでみたけれど、もやもやは変わらなかった。
 わたしは家に帰るなりずっと「ドラゴンテールズ」を読んでいた。喉がかわいて困っていたところに、シャーリーはフクロウと出会う。フクロウは泉の場所を教えてくれる。その言い方がなんだかおとぼけで、かわいい。フクロウは、この先の林のツグミはいたずらっこだとシャーリーに注意してくれる。でもやっぱり、シャーリーはいたずらツグミのせいで道に迷ってしまう。
 夢中で読んでいたけれど、いいにおいがしてきて、本をとじた。ダイニングをのぞくと、お母さんが「ナイスタイミング。ご飯できたよ」と言った。テーブルにはオムライスが2つ並んでいた。オニオンスープもある。
「やった、今日はオムライスだ。でも、2つ?お父さんは?」
「今日は仕事が遅いから会社で済ますって」
「今日も?コロナになってからほんと忙しいね」
「そうね。ま、このご時世、ありがたいことだけどね」
「ふーん。そうなのかなぁ」
 お父さんの会社では、衛生用品を取り扱っている。コロナ禍になってから、病院だけじゃなくて個人からも問い合わせが増えて、大変なんだって言っていた。
 オムライスにスプーンを入れる。黄色いたまごがふわっとしている。
「お母さん、今日ね、相原さんって子が、髪を金色にしてきたの。それでね、わたしがいま読んでる本のキャラクターにそっくりなの」
「相原さん?」
「今年同じクラスになった子。関西から引っ越してきたのかな、関西弁なの」
「へー。相原さんとお友達になったの?」
 お母さんがさりげなく聞いた。
「ううん、こないだの席替えで相原さんの後ろになっただけ」
「ふーん」
 お母さんは少しわたしを見つめてから、オムライスをちょっとだけ口に入れた。お母さんが何を考えているか、わたしにはよくわかる。決まった友達ができないわたしを心配しているのだ。
「今度、本見せて、似てるねって話しかけてみたら?」
 お母さんがいたずらっぽく言った。
「うーん」
 お母さんみたいに、誰とでもいろいろ話せたらいいなって、わたしも思っている。こうやって家でお母さんと話すときには、いっぱい話せるんだけど。学校では、そんなにうまく話せない。
 次の日、相原さんの髪の毛がいっそう気になって、後ろの席からじっと見つめていた。すると、わたしの背中を後ろの席の子がつんつんとつついた。
「堤さん、昨日の宿題見せてくれない?もうすんごく難しくってさ、全然わかんなくて。でも堤さんならできてそう」
 たしかに、昨日の宿題は難しかった。だから、わたしも一生懸命考えてやった。写しちゃうのはなんだかずるい。
「あー、昨日の宿題、難しかったよね…」
 心のなかの気持ちは、こんな言葉にしかならなかった。
「そうそう。ねっ、お願い!」
 わたしは愛想笑いをしながら、のろのろノートを出した。昨日の宿題のページを探していると、ちょうど相原さんが席を立ってこっちに通りかかった。
「え、なに、宿題見せてもらってるん?せこくない?」
 写す気満々で鉛筆をかまえていた後ろの子は、びっくりして相原さんを見た。
「うちやったら嫌やなー、あっさり写されたら」
 相原さんはけろっと言い足した。相原さんに言われて、後ろの子はしぶしぶ「まあ…、んじゃ、自分でやってみる」と言いながらも、席を立って行ってしまった。わたしが何も言えないでいると、相原さんはわたしに「堤さんもさ、嫌やったらそう言うたほうがええで。…あ、でも、もしかして嫌とかちゃうかった?よけいなこと言った?」と言った。わたしは首を横にふった。
「そんならいいんやけど」
 ありがとう、って言いたいけれど、うまく言えないでいるうちに、相原さんはばっとわたしの机の上の本を手に取った。
「これ、もしかしたらドラゴンテールズのやつちゃう?」
 わたしはびっくりして、相原さんを見つめた。
「これ、シャーリーやろ?」
「え、あ、そう」
「やっぱそう?うちがいまハマってるゲームもドラゴンテールズやねん。スマホのゲームでさ、原作があるってのは知ってたんやけど、こんなんやったんやー」
 これがゲームになってるんだ。初めて知った。
「ドラゴン退治に行くストーリーやろ?」
「うん、そうそう」
 相原さんの勢いに気圧されながらわたしが答えると、相原さんは目を輝かせた。
「もしかして、ツグミのとこの抜け出し方、知ってる?うち、そこで止まってんねん。もうずっとクリアできてへんくって」 ツグミのところ。わたしがちょうど読んでいるところと一緒だ。
「あ、本当?えと、わたしもいまそこ。ツグミのところ。いたずらされて、迷ってるの」
 相原さんはずいと身を乗り出して、「ほんま?じゃあさ、抜け出し方わかったら、教えてくれへん?」と言った。「あ、うん、えーと、いいよ」「ほんま?ありがとう、よろしくな!」
 相原さんは目をにっこりさせて言った。魔法がうまくいったときのシャーリーの笑顔のイメージそのままで、シャーリーに似てるねって言いたかったけど、ちょうど先生が来たのでそれっきりになってしまった。先生の話を聞きながら、相原さんの髪をぼんやりながめた。相原さんとこんなに話したのは初めてだった。怖いと思っていたけれど、そんなことないかもしれない。
 わたしは家に帰るとさっそく、「ドラゴンテールズ」の続きのページを開いた。
 ツグミの中に一羽だけ、羽が虹色のツグミがまぎれていた。シャーリーはそのツグミのあとをついていく。このツグミだけは正直ツグミで、シャーリーは迷い込んだ林から抜け出すことができた。
 ゲームも一緒かな。虹色のツグミを探せばいいんだよって、明日、相原さんに教えてあげよう。そして、シャーリーに似てるねって、話してみよう。
 次の日、相原さんは髪をおろしたままだった。なんだか元気がないみたいに見える。いつもとはまた違う雰囲気の相原さんに、わたしは結局話しかけられなかった。
 しばらくしたらまた相原さんが話しかけてくれるかなと思っていたけれど、そんなこともなく、日は過ぎていった。前と同じように、プリントを回したり、そんなときに少し話すだけ。相原さんはずっと、元気がないように見えた。

 
 放課後のピアノ教室を終えて外に出ると、いつのまにか雨が降っていた。空気もひんやりして、カーディガンをはおっていても肌寒い。わたしはピアノの先生に電話を貸してもらって、お母さんに迎えに来てもらうことにした。
 ほどなくして、お母さんは傘とジャンパーを持って迎えに来てくれた。

「急に寒くなったわね。もうジャンパーがいる季節ね」
「ありがとう、寒かったー」
 わたしはカーディガンの上からジャンパーを着た。雨の空気で冷えた肩が、ほっこり暖かくなった。傘をさして、お母さんと並んで歩いた。雨だからか、あまり人通りがない。ふと、公園の東屋に人がいるのに気がついた。
「お母さん、あそこに人がいるよ」
「あら、こんななかで遊んでるのかしら。体調くずしちゃうわ。でも、ひとりみたいね」
 よく見ると、金色の髪に黒いジャージ。わたしは気になって、公園の入り口まで近づいてみた。たぶん、相原さんだ。
「相原さんかも」
「え?こないだ言ってた子?こんな雨のなか、どうしたのかしら。なにかあったのかな」
 お母さんと一緒に東屋に近寄り、そっとのぞきこんだ。相原さんは椅子に座ってスマホをいじっていた。相原さんはわたしの足音に気づいて、顔を上げた。
「あれ、堤さんやん。どしたん、こんなとこで」
 相原さんはお母さんにも気がついて、軽く頭を下げた。
「相原さんは?」
「ん、ゲームしてた。あっ、そういえば、ツグミのやつ、教えてって頼んでたんやっけ。あれわかった?」
 わたしが答える前に、お母さんが「相原さん、こんなとこで寒くない?」と聞いた。
「あー、まぁ、大丈夫です」
 相原さんはそう言ったけれど、唇は寒そうに色をなくしている。マスクを外しているところはほとんど見たことがなかったから、めずらしくってじっと見てしまった。相原さんはわたしの視線に気がついて、ポケットから黒いマスクを取り出してつけた。

 「相原さんのお家この辺なの?」とお母さんが聞くと、相原さんは「うん、そっちの弁当屋の上」と道の向こうのお弁当屋さんの建物の2階を指差した。

「傘貸してあげるよ。これからひどくなりそうだし、そろそろ帰ったほうがいいわよ」
 お母さんがそう言って傘を差し出した。
「いえ、平気です。まだ帰んないし」
 お母さんは、「今、お家誰もいなくて入れないとか…?」と聞いた。
 相原さんはちょっと考えてみてから、「いや、そんなことはないですけど、まあ、ちょっといろいろあって」と言った。
 わたしは頭のなかがはてなでいっぱいになった。お母さんは一瞬真面目な顔つきになった。そして「そしたら、うちにおいでよ」と言った。相原さんは驚いた顔をした。
「うーん、でも。こんなコロナのときに行ったら迷惑じゃないですか?」
 お母さんはにこっと笑って、「ここにいるほうが、あなたの体調が心配」と言った。そして自分の上着を脱いで、相原さんの肩にかけた。
「ああー…っと。そんじゃ。ツグミのやつ教えてほしいし。あ、えっと、これ、借りていいんですか?」
 相原さんは肩の上着を見た。「はおっておきなね」とお母さんが言うと、相原さんは「ありがとうございます」といつになく早口で言った。
 わたしとお母さんはひとつの傘に入り、相原さんに傘をひとつ渡した。相原さんは黙ったままついてきた。

 家に着いてわたしの部屋にふたりきりになると、わたしはなんだかとても緊張してきた。相原さんはわたしにはかまわず、部屋のなかをきょろきょろしている。クッションの上にどかっと座ると、「ね、さっそくこれ教えて」と言った。わたしはどぎまぎしながらも本を取り出して、ツグミのさし絵が載ったページを開けた。

「えとね、一羽だけ、虹色のツグミがいるはずなの。そのツグミだけが、ちゃんと道案内してくれるみたい」

「虹色のツグミかぁ。ここいろんな柄のツグミがいるけど、道案内してくれるやつがいたんや…」

 相原さんはものすごいスピードでスマホの画面を動かしていく。操作をしながら「なんかこのツグミたち、かわいいやんな」と言った。
「そうだよね、いたずらっこなところも」
「まあ、そのいたずらのせいで全然クリアできひんのやけどな。そう思うと、このツグミの林に来る前に出会ったフクロウのほうがかわいいか」
「あー!フクロウ!泉の場所教えてくれたフクロウね?たしかに、ちょっとおとぼけなかんじが、わたしもかわいいなって思ってた」
「そうやろ?あ、いた!虹色のツグミ。このツグミに話しかけたらいいんかな?あ、ほんまや、道案内してくれてる!わぁー、これでいけそう!ありがと!」
 わたしは相原さんのスマホの画面を見つめながら、本とゲームの違いはあるけれど、好きな物語の話を一緒にできるのって、なんだかうれしいと思った。
「堤さんはさ、このゲームやってへんの?」
「うん。わたしスマホ持ってないし」
「あ、そうなんや」
 相原さんは前に垂れてきた髪をはらいのけた。シャーリーに似てるねって、話してみようと思ってたんだ。
「今日は髪結んでないんだね」
「あー、今日は忘れてたわ」
「ね、その髪って、シャーリーに似てるね」
 相原さんはびっくりした顔をした。
「えー?シャーリー?そんないいもんちゃうやろ」
「え、そうかな。相原さん、この物語知ってるならシャーリーのつもりかなって思ってた」「違う違う。ママがこないだ家で金髪にしたときにさ、脱色剤が余ってさぁ。捨てるのはもったいないからって。そんだけ」
「へぇー。だっしょくざい、ふーん」
 雨がやむまで、ふたりでいろんな話をした。相原さんが帰るとき、お母さんはまたいつでもおいでと言った。
 それから、相原さんはたまにうちに来るようになった。ゲームの続きがわからないからと言いながらやってきて、ふたりでいろいろ話して帰っていった。わたしは相原さんと話すときに緊張しなくなっていた。学校でも話すようになった。相原さんのことを怖いなんて思っていたのが、いまは不思議だ。

 6時間目が終わって外に出ると、ずいぶん寒くなっていた。あけっぱなしだったジャンパーのボタンをぜんぶしめた。空はぬけるように高くって、トンビがふわっと上昇していった。ふと、どこからか歌声が聴こえてきた。なんだろうと思って耳をすましてみると、なんだか聞き覚えのある声だ。あたりを見回すと、道の反対側に相原さんがいる。マスク越しで聴こえにくいけれど、相原さんが「ドラゴンテールズ」のゲームをやっているときに流れている音楽みたい。わたしには気づいていないみたいで、ふんふんと鼻歌を歌い続けている。
 道を渡って「相原さん」と声をかけた。
「今歌ってたの、ドラゴンテールズの曲?」
 相原さんは「今、うち歌ってた?」と聞いた。
「けっこう大きな声で歌ってたよ」
「へー、無意識やったわー」
「すごいね、無意識で外で歌えるなんて」
 わたしが思わず笑ってそう言うと、相原さんは「そんな笑わんといてやー」とすねた言い方をした。
「ううん、いつも自然体でいいなって思ったんだよ」
「ほんまかー?」
「いつも、思ったこともちゃんと言えるし。うらやましい」
 相原さんはわたしの言葉を聞いて、少し黙った。
「うーん、いつも言えるわけちゃうけどな」
 相原さんはいつもと違う雰囲気で言った。そして、小さな声で「ま、うちみたいに言いすぎるとけむたがられるかもしれへんしな」と付け加えた。わたしが何も言えないでいると、話題を変えるように、ジャージの腕を寒そうに大げさにさすった。もう11月もなかばなのに、相原さんはまだジャージのままだ。

「ジャージだけで寒くない?」
「ジャンパー探したけど見つからへんねん」
「そっか。お母さんに出してもらったら?」
「ああ…。そうやね…」
 相原さんはなぜか苦笑いをした。
「そういえば、髪ちょっと伸びたね」
 相原さんの髪の毛の根本は、少し黒くなっていた。
「あー、そやねん。やっぱ黒く戻したいねんけどな…」
「じゃ、それもお願いしてみたら?」
「うん、まあ、そやね」
 相原さんが言葉をにごしたところで、ちょうど相原さんちへの曲がり角に来た。
「…あ、そうや、昨日、巨大カエルの池のところクリアしたんやけど、次、妖精の森やん?すっごい映像きれいやねん」
「へー、妖精の森、どんなのだろって想像してたから、見てみたいなー」
「そしたらさ、スマホとってきて見せたげるわ。ついてきてー」
 相原さんはお弁当屋さんのわきの細い階段をすたすた上がっていく。わたしは後ろをついていった。相原さんはランドセルから鍵を取り出してドアを開けた。「外寒いからさ、玄関入ったら」相原さんはわたしを先にうちの中に入れた。小さな玄関は靴がちらばっていて、すみっこになんとか立った。
「ちょっと待っててな。スマホとってくる」
 相原さんは部屋の中に入っていった。せまい廊下にはゴミ袋が並んでいる。たたんだダンボールが何枚もたてかけられていて、長い間そのままほったらかしにされている様子だ。シンクには食器がいくつも沈められている。
 ふと、階段を登ってくる音が聞こえた。すると、鍵穴をガチャガチャと回す音がして、「あれ、開いてる」と声がしたあと、バッとドアが開いた。
 金髪で背の高い女の人がわたしに気づき、ドアを引いて立ったまま、わたしを見つめた。「誰や?」
 わたしは突然のことでたじろいだ。
「えーっと、相原さんのおんなじクラスの…」
「ああ」
 相原さんと同じ髪の色、黒いマスク。目がきりっとしていて少し怖そう。相原さんのお母さんかな。
 女の人はさっさと部屋のほうに入っていった。なにか部屋のなかでやりとりをしているのが聞こえる。相原さんは「はいはい、またすぐ出かけるから」と大きな声で言いながら、バーンと戸を閉めて出てきた。そして、わたしに「行こ」と言って外に出た。
「ほんま、帰ってきたらイライラしてんねんから、嫌んなるわ」
 相原さんはずんずんと歩きながら言った。わたしはかけ足でついていきながら、おずおずと「いまの人、相原さんのお母さん?」と聞いてみた。
「そうそう。仕事やめてからずーっとあんな調子。髪も金髪なんかにしてさ」
 わたしは相原さんの髪が金色になった日を思い出した。
「お仕事やめちゃったんだ…」
「うーん、やめたっていうか、やめなあかんかったっていうか。ママ、お好み焼き屋で働いててんけど、最近コロナでお客さんも来ないし、営業時間も短くなってさ。お店がつぶれそうってなって、働いてた人やめなあかんようになってんな。うちパパいないし、ちょっと大変やねん」
「そうだったんだ…」
「でもママ、仕事やめたら金髪にしてさ。そんで次の働くとこ見つからへんってさ。家にいたらすごいイライラしてんねんな。うちにめっちゃ怒るし」
 ピアノ教室の帰り道、雨の中公園にいた相原さんを思い出した。
「だから最近、あんまりママとは話さへんねん」
 ずんずんと先を歩く相原さんの表情は見えない。束ねられた金色の髪の毛がゆらゆら揺れている。
「ほんまはさ、仕事やめたらママといっぱい一緒にいられるって思ったんやけどな。ずっと夜遅くまで仕事やったし。でも仕事やめても、うちにはかまってくれへん。…いろいろ話したいことあるんやけどな」
 相原さんは少し沈黙した。わたしたちの真上でトンビが鳴き、ふたりで空を見上げた。澄んだ空を、トンビはゆったりと曲線を描いて横切っていった。
 夜、ベッドに入って目をつぶると、今日の相原さんの顔が浮かんだ。
「いろいろ話したいことはあるんやけどな」
 そう言った相原さんは、さみしそうだった。
 金髪になった相原さん。公園でひとりでいた相原さん。あのときわからなかった相原さんの気持ちが、心に流れこんでくるような感覚になった。
 わたしは喉の奥の奥がもやもやしてきた。最近感じていなかったもやもや。このもやもやはきっと、相原さんの分だ。
 ほんとの気持ちを話せないもやもやを、わたしはよく知っている。
 なんだか眠れなくって、起き上がってスタンドの電気をつけた。枕元には「ドラゴンテールズ」が置いてある。
 シャーリーはとうとうドラゴンのすみかにたどり着いた。これまでの道のりで身につけた魔法の力の限りをつくして、ドラゴンの吹く炎を受け止めた。ドラゴンは炎を吐きつくすと、みるみる体が小さくなり、大人しくなった。もうドラゴンが町で悪さをすることはないだろう。
 とてもおもしろくて、もう最後まで読んでしまったのだった。相原さんとこの物語について話せるから、もっとおもしろくなったような気がする。いつもだったら、読み終わったらすぐ返しているけど、今回は読み終わったのにわざわざ延長した。相原さんと話すときにいつでも出せるように。わたしは最後のページを開いた。最後のさし絵は、魔法使いシャーリーの満面の笑顔だった。
 次の日は土曜日で、学校はお休みだ。けれどわたしは落ち着かなくって、ジャンパーを着て外に出た。
 お弁当屋さんのわきの階段を登り、ドアの前に立った。ここまで来たけれど、何をどう言えばいいんだろう?わたしは立ちすくんでしまった。
 相原さん、お母さんにちゃんと気持ちとか話したほうがいいよ?それとも、相原さんのお母さんに、ちゃんとお話ししてあげてって?でも、あのお母さんちょっと怖そう。相原さんとふたりで一緒に気持ち伝えようとか?
 頭のなかがぐるぐるしてきたそのとき、ドアがガチャっと開いた。いつもと同じ、黒いマスクに黒いジャージの相原さんが出てこようとして、わたしがいることに気づいた。
「あれ、どうしたん」
「あっ…、おはよう」
「遊びにきてくれたん?ちょうどよかった、うちも行こうかなと思っててん」
 相原さんはそう言ってから、小さな声でわたしに「今日もイライラやばいねん」と言った。わたしもつられて小さな声で、「あっ…、そうなんや…、うん、じゃ、わたしの家行こっか…?」言った。
 すると、奥の部屋の戸がばっと開いて、相原さんのお母さんが顔を出し、「ちょっと、開けっ放しにせんといてよ。部屋寒くなるやんか。出るならはよ出て」と言った。
 相原さんは「はいはい」と言って、外に出ようとした。わたしは思わずそれを押し留めて、「あの!」と大きな声を出した。ふたりは驚いてわたしを見た。わたしも自分自身に驚いた。
「…えっと。相原さんに…」
 ふたりはわたしが何を言うのかと、驚いたまま見つめている。
「えっと…。ジャンパー出してあげてください」
 相原さんのお母さんはがくっとずっこけるマネをして、「深刻な顔して何言うかと思ったら、ジャンパーかい」とつっこんだ。
 相原さんのお母さんは相原さんのジャージをちらっと見て、「ジャンパーくらい、自分で出せるやろ。そっちの部屋の、引き出しに入ってるんちゃう」と隣の部屋を指さした。相原さんは「探したけど、わからんかったんやもん」と言った。
「よく探したらあるやろ。なにを甘えてんのよ」
 相原さんのお母さんは戸を閉めようとした。
「でもさ!」
 相原さんは急に声を大きくして言った。
「…でもさ、ママに甘えられんかったら、誰に甘えるん…?」
 相原さんのお母さんは驚いて、戸を閉める手を止めた。相原さんは泣きそうになっている。
「ママ、最近ずっとイライラしてるし。全然話せへんし。寒くってひとりでジャンパー探したけどないし。髪もさ、ママが楽しそうやったから金髪にしたけど、みんなじろじろ見るし。黒に戻したいけど、でも、そんなん話せる雰囲気ちゃうし」
 相原さんはせき止めていた気持ちがあふれるように話している。相原さんのお母さんは、じっと相原さんのことを見つめている。
 相原さんはわたしに「ごめんな、行こ」と小さな声で言いながら外に出て、玄関のドアを閉めた。「え、でも」とわたしがまごついていると、玄関のドアが開いて、相原さんのお母さんが出てきた。そして、「あぁ、今日寒いな。たしかに、ジャンパーいるな」と言った。相原さんの結んだ髪の毛に触れて、そのまま何かを思い出しているみたいに黙ったあと、「けっこう根本伸びてるな」と言った。そして、「ごめんな」と言って相原さんの頭をなでた。相原さんはうつむいたまま、おとなしくなでられていた。
 相原さんは少ししてから恥ずかしそうに大げさに涙をぬぐい、「堤さん、ありがとうな」と言った。わたしは喉の奥の奥のもやもやが消えていくのを感じた。
 
 その日からしばらくして、学校で相原さんが「ゲーム、全部クリアしたで」と話しかけてきた。クリアしたことでうれしそうだったけれど、わたしはなんだかちょっとさみしい気がした。
「でもさ、またうちに遊びに来てね。うちのお母さんも、おいでって言ってたよ」
「うん、またそのうち行くわ。ありがと」
 相原さんはそう言ったけれど、そのうちに冬休みに入ってしまい、それっきりになった。
 
 3学期が始まった。教室に入ってきた相原さんを見て、わたしは驚いた。相原さんの髪が黒くなっていたのだ。またみんながざわついた。相原さんは気にしていない様子で、わたしに「おはよう」と言った。
「相原さん、髪、黒くしたんだね」
「うん。冬休みの間にさ、ママ黒髪にするからって、うちも一緒に黒くした」
 「そうなんだ。黒いのも似合ってる。シャーリーじゃなくなっちゃったけど」
「はは、もともとシャーリーちゃうけどな。今さ、ママ、また仕事見つけるって張り切ってんねん」
 相原さんはそう言って笑った。
 授業の間、相原さんの黒い髪を見つめるのは、なんだか新鮮なかんじがした。
 休み時間になって、図書当番の日だったことに気がついた。ちょうどタイミングよく中谷さんが通りかかった。またどこかに遊びに行こうとしてる。わたしは中谷さんを呼び止めた。
「中谷さん、今日図書当番だよ。行こう」
 中谷さんは驚いた顔でわたしを見た。そして決まり悪そうに言った。
「あー、そうだっけ。まあ、そろそろ行かなきゃね」
 図書室には新刊が入っていた。新刊のなかに、「ドラゴンテールズ」の続編を見つけた。表紙にはシャーリーともうひとり、前作には出てこなかった女の子が描かれている。新しいキャラクターかな。今度はどんな冒険だろう。これもまたゲームになるのかな。あとで相原さんに見せてあげよう。そうだ、本もおもしろいよって、おすすめしてみようかな。

inserted by FC2 system